【エルデル・ホリカワ/NB】第二次世界大戦が終わり、ブラジルへの日本移民は一九五三年に再開された。戦後にブラジルへ渡った人々は約六万人に上った。戦後移民は、ブラジルでもサンパウロ州やパラナ州、マットグロッソ州ではなく、他の地域に移住することが多かった。これらの移住先でも彼らは母国の伝統を重んじ、大切にして生きてきた。日本語はその土地の公用語だった。
例えば、南リオグランデ州の州都ポルトアレグレ市から五五Kmにあるイヴォチ移住地。同地は花卉の生産地だが、日本生まれのガウーショがいるということでも有名である。
一九六六年にイヴォチ移住地に日本移民二十六家族が入植、キウイやぶどう、野菜、花卉の生産を始めた。入植した移民の出身地は、北海道、山口県、広島県、鹿児島、熊本県、京都府だった。一九六八年に二年契約で移住した吉岡唯男さんは、現在イヴォチ文協の会長を務めている。吉岡さんは最後の入植者だった。当時、二十歳の吉岡さんは、日系団体の援助により一九七〇年に自身の土地を購入、ミユキさん、オサムさん、アキエさんとアユミさんの四人の子どもを育てあ
げた。子供たちは現在ポルトアレグレ市に住んでいる。
現在、イヴォチ移住地には三十七世帯一〇四人の日系人が住んでおり、約半分は一世。最高齢者は八〇歳近い。「世帯のほとんどは現役から退き、夫婦のみで暮らしている方が多いです」と吉岡さんは言う。
吉岡さんによると、移住地には最盛期の一九七五年に四十二世帯が住んでいたという。気候にも恵まれ、ぶどうの収穫は最高記録を達成、ヨーロッパなどに輸出していた。しかし、その後産業は衰退していった。吉岡さん自身も、日本にデカセギとして行ったことがあるがすぐに戻ってきた。「愛知県にあるトヨタの工場で四カ月働きましたが、イヴォチが自分の生きるべき土地だと分かり、すぐに戻る決意をしました」。
南部では、ほかに成功した移住地として、サンタカタリーナ州フレイ・ロジェリオ市にあ るセルソ・ラモス移住地も挙げられる。同移住地は、州政府と日本政府の協定により創設された。移住地の名称は、協定に調印した当時の州知事に由来している。調印は一九六三年一月二十八日に署名されたにも関わらず、最初の八世帯五〇人の移民が着いたのは翌年の四月九日のことだった。
長崎で被爆した小川和巳さんは、ラモス移住地の中でも先駆者的存在だ。現在もほとんどが一世で構成される約二〇世帯のラモス移住地に暮らしている。特産品は日本梨とスモモ、椎茸など。イヴォチ移住地の例でも見られるように、ラモス移住地でも、いまだに日本語を話す人の方が多い。時期になれば梨祭り、桜祭りも行われ、多くの人で賑わう。一九九八年には、長崎国際親善協会から四〇〇年前に鋳造されたブロンズの鐘が同地に贈られ、平和の鐘公園が作られた。
ラモス移住地には日本語学校があるが、生徒は少ない。若者は、クリチーバやフロリアノポリス、ポルトアレグレなど、町の学校へ行ってしまうようだ。それでも同地には、戦後早くから復活した質の高い剣道が伝えられており、ブラジルの剣道界で好成績をおさめる剣士らが多く存在するという。「私は日本生まれのカタリネンセ(サンタカリーナ州の人)であり、ブラジル人の心を持っています」と小川さんは語った。