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日伯融合の結晶‐日系初の6世を生んだ家族の1世紀

日伯融合の結晶‐日系初の6世を生んだ家族の1世紀

Susy Murakami/NB
大西家は、日本とブラジルの融合の象徴(前列左がエンゾ君)

【スージー・ムラカミ/NB】大西・中村エンゾ裕太君(3)は、一秒たりとも止まらない。ビデオゲームで遊んだかと思えば、プラスティックの剣でチャンバラごっこと、遊びに忙しい年頃だ。彼が両親に何かせがむ時、エンゾ君の口から日本語の単語を聞くことがある。もし、誰が6世かと聞かれたら、エンゾ君はちゅうちょせず自分を指差すだろう。まだその言葉の意味が正確に分からないとしても、何か特別なものがあると理解しているはずだ。

 エンゾ君はブラジルの初の日系6世だ。一世紀にわたる日本移民の歴史を物語っている彼の家庭では、日本の伝統や習慣が押し付けではなく自然に伝えられている。そして少しずつ日本語、日本の文化、和食を知り、先祖の母国を認識していくだろう。

 エンゾ君の両親、大西ワルテル・ヒデオさんとヴァネッサ・マユミさんは、先祖の軌跡を忘れることがないよう日本の習慣を伝えることの重要性を認めると同時に、ブラジルでの生活との調和も大事だと考える。「時々、フェイジョンと御飯と一緒に豆腐も出します。我が家の食卓では日本とブラジルがほどよく融和しています」とヴァネッサさんは言う。

 日系であるという誇りと家系に対する関心によって、エンゾ君が6世であるということはすでに分かっていたが、2006年にNHKによる調査が行なわれ、エンゾ君がブラジル日系社会初めての6世であるということが分かった。ヴァネッサさんは28歳で結婚し31歳でエンゾ君を生んでおり、そのニュースは家族にとって大きな驚きであるとともに非常に喜ばしいものだった。しかもヴァネッサさんも自身が12歳の時にブラジル日系社会で初めての5世であるということが分かったのだった。

 中村修さんはエンゾ君の母方の祖父である。修さんは家族の写真をアルバムに納め、身分証明書や家族の軌跡を記すメモ書きなどすべて大切にしまってあると言う。その中で笠戸丸でブラジルに渡った移民の集合写真があり、その写真にはエンゾ君の高祖父母が3人いる。

 修さんは4世である中村ネウザ・ミチエさんと結婚した。ネウザさんは竹内ミツジさんの娘で、ミツジさんは3世の竹内ジュリア・ハルコさんと結婚した。ジュリアさんの母親は2世のタバタ・カワバタ・トキエさんで昨年96歳で亡くなった。移民としてブラジルに渡り、当初の生活がどんなものであったかということを詳しく家族に話してくれたのがトキエさんだったのだ。

 トキエさんの両親、川畑トコノスケさん、カネギクさんは、1908年6月18日、笠戸丸でサントス港に到着した。当時トコノスケさんは26歳、カネギクさんは20歳だった。夫妻はリベイロンプレットにあるグアタパラ移住地に配耕された。2年後、サントスに新天地を求めた一家は、生計を立てるため、漁網を修理する内職をコーヒー栽培と平行して行った。

 重労働がたたったのか、カネギクさんは30歳という若さでこの世を去った。そのためトキエさんは、9歳で親の仕事を手伝わねばならなかったが、希望だけは捨てなかった。いつも通る道に教会があり、そこで毎日立ち止まっては、神様に生活が楽になるように祈ることを忘れなかった。後に番組スタッフが撮った教会の映像がトキエさんのために届けられ、その時代を思い出したトキエさんは涙を流した。

 父親トコノスケさんが亡くなった時、トキエさんはまだ若かった。その後サンパウロに出て、女中や子守りの仕事をしながら生活を支えた。1934年にタバタ・タケオさんと結婚、カンポリンポ(現在のピラジュッサラ市)に引越した。同地で農業を営み、その後、エンブー、イタペセリカダセーラにも住んだ後、再びカンポリンポに戻ってきた。7歳の時に髄膜炎を患い、聴力を失ったにもかかわらず、逆境に立ち向かい、5人の子どもを育て上げた。

 トキエさんの人生は様々な困難と逆境が絶えず繰り返されてきた。トキエさんの望みとは、子どもたちだった。農作業をしている間は、子どもをレタスを入れる木箱の中に入れた。耳は聞こえなくとも、トキエさんは子どもがお腹を空かせたり、オムツを換える時間を正確に知っており、子どもの世話をまめにした。仕事も子育ても重労働でだったが、当時の世相が日系ブラジル人にとって不遇の時代であったことも辛かったという。第二次世界大戦後のブラジルで日本人が敵視され、冷遇されたことも忘れられないという。

 トキエさんの娘、3世のジュリアさんは18歳で結婚した。それまでは家族の仕事を手伝うため農作業に明け暮れる日々だった。ご主人のミツジさんもまた農業を生業としていたが、その人生に嫌気がさし、他の仕事を探し始めた。「辛い時代でした。凶作が続き、豊作だったとしても収穫物に値段が付かないのです」とミツジさんは当時を振り返る。

 農業から一転し、ミツジさんはタボアンダセーラにある陶器製造工場で働き始めた。そのタボアンダセーラ市でミツジさんは市会議員(3期)と副市長に選出された。ジュリアさんとの間に娘ネウザさんが誕生し、ネウザさんは修さんと結婚した。2人は現在は現役を退いて隠居生活を送っている。

 2人の娘のヴァネッサさんは、6世のエンゾ君の母親で公務員として働いており、父親のワルテルさんは観光会社の営業部長として働いている。ヴァネッサさんはタボアンダセーラで生まれ育ったが、現在はサンパウロ市で暮らしている。


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